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 达摩祖师 (菩提达摩)

 达摩祖师,菩提达摩 (Bodhidharma),是中国禅宗的始祖。主要宣扬「二入四行禅法」,对中华文化起了很大的影响。

 他生于南天竺 (印度),刹帝利种姓,传说他是南天竺国香至王的第三子。他的名字原本叫菩提多罗,成年之后依照习俗更名为达摩多罗,是禅宗第27代祖师般若多尊者的大弟子,成为印度禅宗第28代祖师。

 時有西域沙門菩提达摩者、波斯国胡人也。起自荒裔、来遊中土。見(永宁寺的)金盤炫日、光照雲表、寶鐸含風、響出天外。歌詠讚歎、實是神功。自云,年一百五十岁、历渉諸国、靡不周遍、而此寺精麗、閻浮所无也。極佛境界、亦未有此、口唱南无,合掌连日」。『洛阳伽蓝记』记。

 梁武帝普通元年(西元520年)、达摩自印度航海来到广州。

 达摩至中国后,成为求那跋陀罗(Gunabhadra),的弟子,属于南天竺一乘宗 (楞伽宗)。求那跋陀罗,义译为功德贤,中天竺人, 译出『楞伽阿跋多罗宝经』4卷。后菩提达摩以此四卷本『楞伽经』传授徒众。

 帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
 師曰 並無功德
 帝曰 何以無功德
 師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
 帝曰 如何是真功德
 答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
 帝又問 如何是聖諦第一義
 師曰 廓然無聖
 帝曰 對朕者誰
 師曰 不識
 帝(武帝)不領悟。師(达摩)知機不契

 (景德傳燈録第3巻)

 达摩北行至北魏。他止于嵩山少林寺,面壁坐禅,默然无语,凡九年。『神僧传』记。这是面壁九年

 達磨大師 (菩提達磨)

 達磨祖師、菩提達磨 (Bodhidharma) は中国禅宗の祖である。その語録「二入四行論」は、中国文化に大きな影響を与えた。

 彼は南インドの香至国王の第3子として生まれた。幼名は菩提多羅であったが、成年後、達磨多羅となった。禅宗第27祖般若多羅について出家し、印可を受けて第28祖となった。

 この頃、菩提達摩という西域の僧がいた。彼はペルシア生まれの胡人であった。彼は夷狄の地からはるばる中国にやって来た。(永寧寺の塔の)金盤が日に輝き、その光が雲を照らし、金の鈴が風を受けて鳴り、その響きは天にも届く。彼は思わず歌を詠み、天の為せる業を讃えた。彼は「150歳に至るまで諸国を訪ね歩いたが、この永寧寺の素晴らしさは見たことがない。たとえ世界中をくまなく歩いても見つからない」と言い、「南無」と唱えて連日合掌した。『洛阳伽蓝记』にある。

 梁武帝普通元年(西元520年)、達磨はインドから船で広州に渡った。

 達磨は中国で求那跋陀羅針(Gunabhadra)の弟子となり、南天竺一乘宗 (楞伽宗)を学んだ。求那跋陀羅は中インドの人であり、『楞伽阿跋多羅宝经(楞伽经)』4巻を漢訳した。達磨らは『楞伽经』全4巻を伝えた。

 帝問うて曰く「朕即位して以来、寺を造り、経を写し、数え切れないほどの僧(僧伽、教団)を度してきた。どんな功徳があるだろうか?」
 師曰く「功徳などない」
 帝曰く「どうして功徳がないのか?」
 師曰く「そのような人天(人間界・天上界)の小果は、煩悩を生み出すだけである。影のように実体がなく、とても功徳とは言えない」
 帝曰く「真の功徳を得るにはどうすればよいか?」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。功徳はこの世では得られない」

 帝又問う「聖諦の第一義とは何か?」
 師曰く「広大で空虚な無聖である」
 帝曰く「朕に前にいるのは誰か?」
 師曰く「わからない」
 帝(武帝)は理解できなかった。師(達磨)は機の契(かな)はぬを知った

 (景德傳燈録第3巻)

 達磨は北に向かい、北魏の嵩山少林寺で9年間黙って壁に向かった。『神僧传』にある。これが面壁九年である。

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